目次
パニック障害体験談
パニック障害克服ABC編集者です。
今回はパニック障害の体験談ということで、実に17年もの間、パニック障害と向き合い闘病してきた方に体験談を書いて頂くことが出来ました。
非常に長期の疾患となっていますが、完全ではなくともパニック障害を克服し、前向きに人生を歩まれています。
パニック障害を10年以上患われる方は珍しくはありません。
だからこそ、この方の体験談を読んで共感で終わるのではなく、前向きな姿勢や克服の過程を学んで、1日でも早く社会復帰できるよう努めてみてください。
パニック障害体験談「17年間、パニック障害と闘病して得られたこと」
[埼玉県日高市 45歳 女性]
パニック障害になって17年目に突入しました。
今では、たまに軽い発作になるくらいで、パニック発作とも上手く付き合えるようになってきています。現在はうつ病にも移行し、パニック障害とうつ病のどちらかを体験している日々ですが、私にとっては大した問題ではありません。
転職の決意
元々、物流関係で働いていた私は24歳の時に福祉関係に転向することを決意しました。
これからの時代は「資格」を持っていないとやっていけないし、その中でも一番興味があったのが福祉分野でしたので、迷わずに通信制の大学(京都府)に入学しました。
4年間で必ず卒業することを決めて、仕事もフルタイム後のアルバイトをしながら、午後9時~午前0時までは勉強の時間に当てました。
医療相談員になって
そして何とか、4年間で大学を卒業しましたが、物流に留まっていました。
経験のない福祉の医療相談員(病院の相談員)としての仕事が見つからず、物流関係にて月に30時間残業込みの係長職をしていました。
その半年後に病院へ医療相談員として採用されました。
初めての相談員は、右も左も分からずに引き継ぎなしで、一人でやっていました。
病院側では相談員を置くことに意義があり、仕事をして欲しいと思っていなかったのだと思います。
私は、寝たきりの方や身内のない方とも随分接してきました。
経済的な相談も受けるので、相談員とは言っても「なんでも屋さん」です。
前任者は産休でしたので、全て他の病院の相談員に教えてもらった記憶があります。
パニック障害の兆候
仕事を覚えればそれを行い、見よう見真似で業務をしている感じはありましたが、退院指導もせず、ベッドコントロールを任され、外来と150名近くの入院患者さんを一人で見ていました。中には、経済的に苦しい人もいます。
私の立場は中立でしたので、車で約1時間もかけて同グループの病院先に肢体不自由の障害認定を受けに行かせるほど、ひどい話はありません。そこで、外科医であった院長に肢体不自由の認定医の資格を取ってもらいたいと打診しました。
だかが運送屋の出身者が県庁や市役所にまで、触手を伸ばし、障害者認定医の取り方まで聞いていろいろと手配しているとは思ってもいなかったのでしょう。それからは、私に宛てた封書は全て開封状態でくるようになりました。「何をしているのか解らない」とそんな理由からでしょう。結局そこは1年半ほどで退職(実質はクビ)しました。
初めての発作
その後は、朝8時から午前1時くらいまでの倉庫作業員として働きました。夜の8時を回ると必ず吐き気などの具合が悪くなっていたので、その頃から体調は崩れ始めていたのでしょう。
休憩時に強い吐き気でトイレに飛び込んだことがあります。それが最初の発作です。
自分に何が起きたのか全くわからず、苦しみの中「このまま死ぬのではないか」との不安がよぎっていた事を思い出します。本格的な発作は仕事の合間の休憩中でした。
私の場合は強い吐き気と便意が伴います。しかし、トイレに駆け込んでもでるのは胃液ばかりで、気持ち悪さだけが2~3時間続くという症状です。
その前から37度以上の微熱の兆候は1年半くらいありましたが、自律神経がおかしいのは自分でも認識していたので、余り気にしていませんでした。
心療内科受診で「パニック障害」診断
当時はアパートでのひとり暮らしで、車で15分程度の所にある心療内科に受診しました。
そこで、初めて「パニック障害」と診断され、その当時は16時間勤務の日々でしたので、当然の事ながらドクターストップがかかり、仕事を辞めざるを得ませんでした。
ある日、受診日に病院へ行ったところ待合室で突然発作になり、車でアパートまで帰宅するのに2時間はかかりました。それからは車も運転できなくなりました。症状はドンドン悪くなり、実家に戻ることになりました。それから3年間強、私の療養生活が始まりました。
自宅療養の始まり
3か月程は通院以外で家から出ることはありませんでした。
もちろん、車の運転も出来なければ、公共機関の乗り物にも乗れない状態でしたから、かなりひどい状態でした。
通常は、自律神経訓練法や行動療法などを行うのですが、私の場合は一切しなかった記憶があります。
その代わり、私はタバコを吸っていましたので、片道徒歩で5分の販売機まで歩いて行くことを日課にしていました。
玄関から1歩でも出ると発作が始まり、帰り道では発作が治まるという連続です。
病院を転院し、買い物へ行けるように
結局、心療内科にも行けなくなり、近くの内科で初めて抗うつ剤を処方してもらい、その頃から徐々に上向きになってきたような感じでした。
一日一回タバコを買いに行くことから始めて、そこから徐々に両親の買い物に付き合うようになり、店内の音楽や人が苦手でしたので、一生懸命商品選びに専念して気を紛らわせる事の繰り返しです。
調子が良い日には、一人で近くのスーパーへ行くまでになり、それでも発作には苦しめられました。
車に乗る練習
また、車の運転には父を会社に送り迎えすることで慣れさせていきました。
最初のうちは母同伴で付き添ってもらい、それを数ヶ月行った後に、調子の良い時は一人で迎えに行くという繰り返しです。
帰宅時は父が一緒なので、行きに何とか頑張れば大丈夫でした。
このように徐々に行動範囲を広げていき、外出する抵抗感をなくし、最後は開き直るように努めました。
なお、現在でも公共機関の乗り物にはほぼ乗れない状態です。
転んでもタダでは起きない
もちろん、結婚もしていませんでしたので、ずっと自宅療養というのは自分の中でも考えていませんでした。
その時に民間資格でしたが資格を取ることを思いつき、必死で勉強したことがありました。
試験会場までは自宅の最寄駅から2つ目。
しかも試しに電車で行ったので、クタクタになるほどの緊張でした。
試験は午前のと午後の丸1日、午前中は何とか持ちこたえましたが、午後は発作が連発でかなり苦しみました。
しかし、勉強したことを思い出して、全て記入して教室から最初に退席しました。流石に帰りは電車で帰る余裕もなく車で迎えに来てもらいましたが、その試験は無事に合格していました。
社会復帰に向けて
症状も何となく落ち着き始め、最初は往復10分から始めたタバコ買いも1時間のウォーキングへとなり、家の中ではストレッチと筋トレで体力を戻しつつ、社会復帰に向けて着々と準備を進めていきました。
ある程度のことが一人で出来るまではかなりの時間を要しましたが、一つ一つクリア出来た自信を原動力に変えて、パートでスーパーの早朝品出しを行うことに決めました。
社会復帰に向けての第1歩です。
念願の社会復帰
変調をきたすことなく勤められたので、1ヶ月後には障がい者施設の生活支援員として社会復帰しました。
もちろん正社員でしたので不規則勤務で夜勤もありました。それ以降は、薬を服用しながらですが、仕事を続けることができるようになりました。
長くも自分にとっては短い3年間だったと思います。
最後に
この病気になってから現在でも、行動範囲も狭くなり、時には外食ができない時もありますので失ったものも多々あります。
しかし、一方では28歳にして両親の愛情の深さを知り、普通であることの素晴らしさ、他人の苦しみや痛みを理解しようとする気持ちなどを、ヒシヒシと感じられるようになったことは、私にとっての財産です。
また、自宅療養の3年間は私にとって決して無駄な時間ではなかったことが、今でも嬉しく思えます。